ukiyoniha’s blog

物語、ポエム。

桜の下にて、面影を(1)

 桜咲く頃、高校を辞めた宇野里桐詠は、足音も静かに冴えて西へ向かう。

 宇野里桐詠。
 「きりよ」と読むその名に、昔はずいぶんと苦しめられた。
 まだ漢字を書けない、話し言葉だけでコミュニケーションをとる幼少の頃は、この名に殊の外苦しめられた。
 オブラートで言葉を包むことをしない鋭利な子供の世界では、変な名前、女の名前みたいと言われ、挙句「おんなおとこ」とからかわれるのだ。
 それでも不思議と、桐詠がその名をつけてくれた両親を恨んだことはなかった。
 からかわれることが気持ちの良いことではないことは確かなのだが、『きりよ』というどこか浮世離れしたような響きが子供ながらに気に入っていたのだ。
 もちろん、子供の頃には浮世離れなどという言葉は知らないので、あくまでそういう、胸のあたりでふわふわとする感覚でしかなかったのだが、大人になってからその当時の感覚を思い出すと、どうやらその表現がしっくりはまるということに気づいたのである。
 とはいえ、からかわれていることに超然と構えていられるような強さは持ち合わせておらず、あまりの仕打ちに泣いて帰ることもしばしばだった。
 しかし、浮世離れしたような響きの心地よさと対になるもう一つの頑強な支えが、その幼き日の苦行ともいえる仕打ちを乗り越えさせてくれた。
 二つ違いの谷野里数李という幼馴染が、いつもヒーローのようにどこからともなく現れて、窮地をことごとく救ってくれたのである。
 以来、兄のように慕い、信頼のおける背中を桐詠はいつでも追いかけてきた。それはもう、文字通りに追いかけ続けた半生であったといって良い。
 小・中のみならず高校も数李と同じ学校へ進学した桐詠は、勢いそのままに大学までも追いかけた。
 数李も桐詠も、同じ理科系の学部だった。
 桐詠自身は先天的には文科系人間と自覚していたのだが、それでも数李の後を忠実に追いたくて理科系を選択した。 
 けれども、数李の進んだ数学の道にはどうしても馴染むことができずにやむなく桐詠は生物学の道を選んだ。
 話はそこで終わらない。その後もしつこいと思われるくらいに後追いは続く。
 小さい頃から弱者の味方だった数李は、桐詠だけに限らず誰からも慕われ、好かれる、いわば子供月光仮面のような存在だった。
 とかく子供時代というものは、強さや大きさというものが小さな世界の権力の源となるものだが、彼はそれにくわえて頭脳も兼ね備えていた。
 そうなれば必然、向かうところ敵なしの誰からも羨望される、絵に描いたようなスーパーヒーローとして崇められる。
 頭脳というのは、抜きん出て勉強ができたということでもあるが、特に秀でていたのは、話の出し入れだった。 
 話の出し入れというのは、明晰判明な主張と相手を落ち着かせる話の聞き方である。
 簡単に言えば、話し上手で聞き上手ということだ。
 特に相手が纏う空間ごと穏やかにしてしまう話の受け取り方は絶品だった。
 そんなことができるから、子供らしからぬ調整役の本領をいつでも発揮していた。
 そういうことだから、これはもうなるべくしてなった、あなたがならないで誰がなる、という職業にあたりまえのように就いた。
 高校教師である。
 そして、数学を教えて生徒と心を通わせるという、これまた向かう所敵なしの、男子生徒、女子生徒ともに憧れる大人気高校教師というスター街道を一気に駆け上った。
 彼が教師になるという将来の夢を桐詠に語った時期は、ずいぶん早い頃だっと思う。
 中学生の時にはすでに、実現が確約された、もう夢というレベルではない未来の事実のように話してくれていたと思う。
 そしてそれを聞いた桐詠には無条件に納得した記憶がある。あなたがならないで誰がなる、と。
 それと同時に、自動的にというか反射的に桐詠の将来の夢もそこで決まった。
 高校教師である。
 それも、目指すは彼と同じ学校で教える教師である。
 しかし桐詠の場合は、致命的に最も不向きな職業であるという現実も対になっていた。
 実は桐詠の父も、そのまた父も教師だったので、家系的には教師家系に育ったサラブレッドと言えるのだが、人前が苦手、話が下手、眠たい声を出すという三拍子が揃ってしまっていた桐詠はどう転んでも教師体質でないことを痛いくらいに自覚していた。
 それを本人以上に客観評価できていた父には、教員として採用されたという事実を伝えた時、それはそれは大いに驚かれたものだった。そして、大いに心配されもした。
 それでも幼少期からすっかり数李という魔法にかかっていた桐詠は、その三拍子にがっちりと蓋をしてほぼ無理やりに彼に続いたのである。
 それが決定的に間違いだったと気づくのにまったく時間は要さなかった。
 すぐに、後悔した。
 桐詠の授業に遭遇した生徒たちは、ほとんど見事に陥落することになるのである。
 十分ともたずに夢の中へと誘われるのである。
 心地よい夢へと連れ去る桐詠の授業はあまりに悪名を馳せすぎて、職員会議でいつも槍玉に挙げられる始末だった。
 そこでも疾風迅雷、風と共に現れてくれるのが教祖数李様だった。
 この構図はまったく子供時代と変わっておらず、嬉しさと同時に自分の成長の止まり具合にほとほと呆れたものである。