ukiyoniha’s blog

物語、ポエム。

桜の下にて、面影を(2)

 数李授業の人気の秘密。
 それは、生徒の「面白い」という気持ちを引っ張り出すことから始まる。
 数式に公式を当てはめて自動的に弾き出すという味気も妙味もない授業は、数李にとっても興味のないものだった。 
 どうして、そうなるのか。
 そもそもこの数式を解くということはどういうことなのか、という原点を考えるという教え方だった。
 そんな彼は、大人でも一瞬にして素直にのめり込んでしまうようなシンプルなアイスブレイクのネタをいくつも考案していたので、桐詠は夜な夜な仕事終わりの酒場でご教示賜っていた。
 もちろん、桐詠自身の睡眠授業阻止のための起死回生策として転用する目論見である。
 けれども、そうは簡単に問屋は卸さない。
 シンプルな問題をシンプルな答えで解き明かしてなるほどと唸らせるには、やはりそれ相応の話し方、話の展開の仕方というものがある。
 もたもた説明をしていたら、それこそ宝の持ち腐れになってしまう。せっかくの珠玉の問題をどぶに捨てることになってしまうのだ。

 たとえば、こんな問題である。
 数李は、薄暗いバーのカウンターの上に見慣れた鞄からノートとペンを出し、『2/3➗ 1/3=2の仕組みを、小学五年生に絵を使って教えなさい』とスラスラ書いてみせた。
 その問題を前にして桐詠が最初にやったことはといえば、後ろの分数の分母と分子をひっくり返し、つまり1/3を3/1にして、それから前の分数2/3に掛けるというお約束であった。
 何のことはない、桐詠が小学生の時に習ったことをそのまま実践しただけである。
 その時の先生は、こうも言っていたような気がする。
 今後、分数の割り算の問題が出てきたら、100問でも200問でも問答無用でこの方法で解きなさいと。そうすれば、勝手に答えは出るのだからと。
 それを思い出した時、そんなことよりどうして2/3という整数でないものを、1/3というこれまた整数でないもので割ると、2という整数になるのか、という不思議な現象を説明して欲しかったとおもったことも思い出した。
 そもそも2/3を1/3で割るということが、どういうことなのかを。
 しかし、そういうことを言えるような子供でもなかったので授業は何事もなく淡々と進み、自動計算機になるべくひたすら問題を解かされて、あとは分数割り算のオートマティック人間になっていったのだった。
 「それは、分数の割り算の、計算の仕方だね」
 と数李は微笑んだ。そういう時の彼の目は、あの頃とまったく変わらない弟に優しくものを教えるような目だった。
 「ここで大切なのは、計算の仕方、やり方ではなくて、分数の割り算の仕組みなんだ。もっと突き詰めていくと、割り算の仕組みということになるんだ」
 頭のかたい桐詠はますます混乱する。
 「分数の割り算の仕組み?つまり、割り算の仕組み?」
 「そう。そしてこの問題の最終的な着地点は、小学五年生に教えるというところにあるんだ」
 さっき思い出した、小学校時代の自分がどんな疑問を持ったのかということをもう忘れてしまっていた桐詠はいよいよ混迷を極める。
 「いったい、どういうことさ?」
 「答えを知りたくなるよね。わくわくするよね。どうして、大人なら誰でも分かるような、こんな簡単な数式の仕組みを説明できないんだろうって」
 いたずらっぽく、それも穏やかに煽る彼は、やる気スイッチの権化のように神々しく見える。
 「仰る通りです。どうしてこんな簡単な問題がこんなに難しいのか、素直な疑問を通り越して、手も足も出ないでいる自分自身に怒りさえ覚えるよ」
 そろそろ頃合いかなという具合にその数式の下にきれいな円を二つ描き、彼は説明を始めた。
 まるでピザのように見える二つの円をまっすぐな3本の線で三等分すると、左側の円には2ピース分のピザに色をつけ、右側の円には1ピースに色をつける。そうしてから、
 「一旦、ピザから離れて、今度は整数の割り算を考えてみよう」
 と話を切り替えて、今度は分数の式が書かれている右側に『 6 ➗ 3 = 』と書いてみせた。
 「それじゃあ桐詠は、これから小学五年生だよ。小学五年生だから、当然整数の割り算は習得済みです」
 と言って、今度は6の下に三つずつ並べたボールを二列で描き、3の下には同じように三つ並んだボールを一列だけ描いた。そして3を表した三つのボールを四角く囲って、あたかも三つ入りのボールケースのような絵を描き上げてから、
 「では、小五の桐詠くん、この三つ入りのボールケースは、左の絵の中にはいくつありますか?」
 とそのまま小学校の先生になっても大人気になること請け合いの優しい口調で尋ねた。
 「ああ、なるほど」
 そこで桐詠は嘆息した。
 「分数、いや割り算の仕組みというのは、そういうことなのか。割り算というのは、後ろにある割る数が、前にある割られる数の中にどれだけ入っているのか、ということなのか。なるほどお。今更ながら腑に落ちたよ」
 あの時の自分の中に湧いた疑問が、もやもやしたものが一瞬で晴れたようだった。と同時に、恥ずかしさが襲う。いやしくも高校教師という身分の人間が、たとえそれが生物教師であったとしてもこんな簡単なことが説明できないとは、浅学非才さ加減にもほどがあると思えた。
 そんな顔をしている桐詠を見て、やはり微笑みながら彼は畳み込む。
 「今桐詠は、こんな簡単なことが説明できなくて、教師として恥ずかしいと思っているだろう?」
 「ご名答。グーの音も出ない」
 「でもね、それでいいんだよ。そうでなくては、この問題が生きてこないんだ」
 「というと?」
 「この問題を出して、全員に今の私のような説明をさらりとやってのけられたら、まったく私の苦労は水の泡ということさ。つまり、こんな簡単な問題が、こんな身近なことが、こんな誰でも分かっているようなことが実は説明できない、というところにオチがあるんだよ。この場合、私が問題を考え出したから、当然答えを知っているわけだけれど、もしも出題される立場だったら、私も今の桐詠と同じ状況になっているよ」
 そこまで聞いて、漸くこの問題のオチが、この問題を通して生徒たちに気づいて欲しい最終的な着地点がどこなのかが分かった気がした。
 「数李の言いたいことはこういうことかい?知っていることと教えるということは、ステージが違う。もう一歩踏み込んで言うと、知っていると思ってることも実はその仕組みという奥までは分かっていなくて、そのものの表面的なところしか知らない。つまるところ、本当の意味では知っていない、知らない。ということかい?」
 「ご明察。その通りです。大人になると知識が増えて経験も重なっていくから、それなりにいろいろ知っているつもりになっているけれど、それはただの『つもり』であって、本質的には知り得ていないことの方が多いということなんだよ」
 「そこで、私の授業は、答えに導く方法、やり方を教えるのではなくて、その問題を解くための仕組み、そもそもその問題はどういう問題なのかを教えるのです、とつなげるわけだね」
 きれいにパズルがはまったような気分だった。理路整然としている。だから納得もできる。その結果、やってみようという気になる。これは人気の先生になるわけだ。いつものことながら感嘆する。
 「ま、それでも生徒たちはすぐに慣れてしまって、あっという間に予定調和になってしまうから、このフレッシュな状態を一年間続けていくのは、それはそれで手を替え品を替えで大変なんだけどね」
 とまるでそんなことは何でもないことだと思わせる、小さい頃からちっとも変わらぬ安定した必殺スマイルで付け足した。
 そう、谷野里数李という人間は、論理的な話を論理的に話すのではなく、論理的なことを右脳から繰り出せる、そんな人だった。

 だった。
 その夜までは。
 分数の割り算の真相を教えてもらった、その夜までは。
 翌朝に、揃って校長から呼び出しがかかっていた数李と桐詠は、いつもより早くに出勤せねばならかったのでその夜は長尻せずに帰路に着いた。
 二人の家は、お互い大学生になって実家を離れてからもどういうわけか近所だった。
 桐詠は、数李を追いかけていたとはいえ、生活圏にまで侵入して彼のプライベートを邪魔しようとは思っていなかったのだが、気づけばいつも近くに住んでいた。
 今ではすっかり社会人となったのだから、それぞれの生活スタイルに合う街に暮らしていても良さそうなものだが、それでも示し合わせたかのように同じ街に住んでいた。
 さすがにもう一緒に出勤するようなことはなかったが、その日は一時間ほど早く出なくてはならないこともあり駅に近い数李の家に寄る約束をして前夜は別れた。
 いつもどおりに。
 あたりまえのように、明日も、明後日もあるように。
 しかし、彼と話をするのは、彼の笑顔を見ることができたのは、その夜が最後となったのだ。