桜の下にて、面影を(3)
明朝、約束どおりに数李の家の前まで行くと、早朝の静けさとは何か別の類の寂けさが漂っていることに気づいた。
チャイムを鳴らしても、誰も出てくる様子がない。
不安になって玄関を開けようとすると、鍵が閉まっていない。
これはおかしいと、厭な予感が一遍に襲いかかってくる。
慌てて声を張りながら無作法なまま玄関を上がる。
これまでの往来ですでに間取りは分かっている。
さめざめとした空気が導いているように足は寝室へと早まる。
寝室の扉は開いたまま。
なかからは喉を締めつけるような声にならない声が聞こえる。
数李は静かな顔をして眠っている。
すがりつくように奥さんが、仰向けで眠る彼の肩に顔を埋めている。
その横では五歳になったばかりの娘が、母親の泣いている姿に動揺するように立ち竦んでいる。
桐詠はその光景に、哀しさを通り越して頭の中心に一点集中で沸き立つ何かを感じた。
一気に哀しさを飛び越えてしまったため涙も出やしない。あっけない、あまりにもあっけない別れだった。
まだ三十になったばかりである。
まだまだ青年である。
前途有望、人気絶大の、誰にとっても掛け替えのない青年である。
病気ひとつすることなく、健康で、健全な生活習慣である。
神に恨まれるようなことも、何ひとつしてこなかった人生である。
無情である。
すべてのスイッチが順繰りにオフになっていくように、桐詠の体を逆流していた血液が今度は一転、上から下へさあっと引いていく。
その後のことはよく覚えていない。
奥さんが言うには、急いで救急車を呼んだ後、家中のカーテンというカーテンをすべて閉めてから高校へ連絡を入れ、三人が病院へ運ばれていったのを見届けてから学校へ向かったとのことだ。
そして、そのまま校長に退職の願いを申し出た。
即断だった。
これまで選択してきたことのない、自らの揺るぎない決断だった。
そこからははっきりと覚えている。
いや正確に言えば、学校に着き職員室にある彼の机を目にした時に視界と思考が一致して覚醒したのだ。
不条理なほど合理的に、これから追うべきもの、目指すべきもの、目標とすべきものの喪失を知った。
ぱったりと教師でいる意味がなくなった。
今、立っている理由さえなくなったような気がした。
幻のように、これまでの数李を追い続けた半生が終わりを告げた。
この即断を無責任とすら感じない。校長の声など、もちろんまったく届かなかった。