桜の下にて、面影を(4)
雲の上にいるようなあてどない心持ちのまま葬儀に参列した数日後、ふと数李が言っていたことを思い出した。
それは、あまりの睡眠授業の体たらくを嘆いて苦悩していた桐詠を慰める言葉だった。
「桐詠の声は、不思議な魅力を持っていると思うんだ。これはね、君が変声期になるずっと前から、まだまだ小さかった頃から思っていたことなんだ。俗な言い方なら、色気のある声ということになるのだろうけれど、そういう卑俗さを含むような感じではないんだ。声の形容というのはとても難しいから、どう説明したら良いのか分からないのだけれど、特に二人で面と向かって話をしている時の声は、男の私でもぞくっとするくらいに魅惑的に聞こえるんだ。深くて、幅があって、決して低音すぎるわけでもないのだけれど、奥行きがあって。そこにあるきれいな気体だけを掬い上げて、それをすべて吸収してから耳に到達する感じというか。詩的な素養のない私にはうまく言い表せないのだけれど、なにかそういう、心髄まで入ってくるような声なんだ。それで、相手の目を見て話をしている時がその頂点に達しているような気がするんだ」
それと同じようなことを、以前、とある生徒にも言われたことがある。
確か、休み時間や放課後などに近距離で話をする時の声と、教卓から机まで距離が離れた時の声の届き方が変化するというような言い方だったと思う。
単なる慰めだったのかもしれないが、その影響で桐詠の授業では眠ってしまう学生が続出するのではないかという仮説だった。
つまり、近距離での声においては頭を覚醒させ、一定の距離が置かれた時の声は脳を睡眠状態へとさらうのではないかとのことだった。
それもあながち根拠のない話ではない気がして、妙に納得できた。
四十人からいる生徒へ均等に話をする場合、どうしたって同時に全員の目を見ることはできない。
仮に一人一秒ずつ目配せしたとしても単純に四十秒のタイムラグが生じる。
当然そのような視線の送り方は不自然で、生徒にしれてみればただの気持ち悪い先生だ。
それに授業中は黒板も使う。
そうなれば生徒に背だって向ける。
視線を外す機会など無限にある。
むしろ視線を外している時間の方が長いくらいかもしれない。
そうやっているうちに、一人また一人と落ちていく。
そうして残り少なくなった生徒に容赦なく桐詠の視線は集まるようになる。
落ちなかった生徒にしてみれば迷惑な話かもしれないが、そうこうしているうちに残ってしまい桐詠の視線から逃れられなくなった生徒たちは、今度は変に覚醒された脳に変貌を遂げさせられる。
これはこれで授業内容が頭に入ってきづらくなる兆候である。
いよいよ以って夢から覚めたように恍惚とした状態で、
「そう、まるで、音楽を聴いているような心地になるんだ」
と数李も生徒も同じことを口にしたことを思い出した。
「それに桐詠は、子供の頃から突然何かの拍子に、びっくりするような、まるで古歌のような歌を詠むことがあるだろう。その歌があまりにも自然に、流れるように生まれた時の声は、ちょっとこの世のものとは思えないくらいの代物だよ。ひょっとしたら教師になるよりも放浪の歌人にでもなった方が良かったのかもしれないね」
そう冗談半分に言った彼の言葉が鮮明に浮かんだ。
最後の、そして実は最初からずっと言えなかった彼からのメッセージだったような気がした。
いや、彼の背中を追い続けた理由は、このメッセージにたどり着くためにあったとさえ思えるほどの強さを、今なら感じられる。
そうして、残っていた有給休暇を消化する形で、年度末最終日を待たずにぎりぎりの責務を全うして教師の役から降りた。
斯くして、友を喪い、仕事を捨て、目的までも見失い、かといって不思議なくらい自暴自棄にもならず、冴え冴えとした感じすらする意識を伴って桐詠は旅に出たのである。
仮に理由を求めるのであれば、表向きは古の遁世者譚よろしく『無常を歎じて』ということになるのかもしれない。
老少不定、人の命ほど分からないものはない。
これまで、近しい人間を喪った経験はなかった。
よって、この喪失感が恐怖であることを本当の意味で知ったことには相違ない。
喪失したものは、あまりにも大きかった。
しかしその一方で、どこかでこれと同じ経験をしたことがある気がするのである。
それはとても限定的で、絶対的な対象の喪失感という形で、息ができなくなるくらいの苦しみを伴った痛切な経験だった気がするのだ。
それは、会えない苦しさと二度と見ることのできない辛さ、生き別れと死別の両方を包含したような試練のようにも感じるのである。
とはいえ、現実的な悩みからの逃避ということで考えるならば、この声のコンプレックス、いやこの声が原因となって教師としての職務が全うできない、すなわち授業が成立せず生徒の学力を停滞させてしまうという致命傷からの逃避だったと思う。
結局、生徒の教えてくれた仮説を検証することはなかったが、感覚としては概ね当たっていたと思える。
いや、本当のところは、そういう自分への言い訳めいたものも含めて無二の親友からのメッセージに、最初からずっと言えずにいた『教師ではなく君の進むべき道を進みなさい』という心の声に導かれたという感覚が、絶対的な理由だったように思える。
その時、ヒーローだった兄のような数李の姿が桐詠の滲む視界に現れたように思えた。
そして、また歌が流れ出た。
厭わしき無常へのやるせなさを詠じる。
年月を いかで我が身に 送りけむ
昨日見し人 今日はなき世に